なんとなく集め始めたレコード、収集20枚目を記念する尾崎豊の " 17歳の地図 " を握り締めながら電車に乗る。足元のヒーターは何時になく快調で、猛烈な眠気を催させる。なんとなくが高じると本格的な趣味に成り上がるので、寝ぼけ眼で開始する趣味は本当にタチが悪いな、と改めて思う。
レコードを聴いていると、一曲一曲を噛むように聴かねばならない。たった一曲を永遠にリピートすることが不可能なわけでは無いけれどそれはそれで大変に手間がかかるから、三曲目が聴きたいとしても一曲目から聴かねばならない。サブスクで音源を聴くならば好きな曲を一曲だけ摘んでリピートすることも可能なのだが、レコードはそれを許さない。だからこそ選り好み無く、ひとつのアルバムをじっくりと聴き通すことが出来るのだ。とは言っても、アルバムの中にひとつやふたつくらい愛せない曲だって存在する。特にサディスティックなイメージがあるバンドのLP盤から唐突にメロウな曲が流れて来ると、妙な肩透かしを喰らった気がしていけ好かないのだ。しかし慣れというのは恐ろしく、歌詞やベースライン、細やかな転調に至るまで耳を貸し続けていると、そのうちフルで愛せるようになるのだから面白い。現代の聴き方には無い奥深さたるものを、レコードから享受しているのだと日々感じている。

暫くレコードが無くても大丈夫だと思って実家に帰るけど案外そんなことはなくて、数日聴いていないだけでサブスクには無い音が恋しくなる。将来への不安感からか、現代チックへの疲れからか、懐古的なものを好むようになり、果ては好きな人さえ歳下を選ぶ様になってしまった。好きな物や好きな人は憧れ、なんていうことを小耳に挟んだが、これが案外間違っていないのかもしれない。幼少の頃から周囲がゲームに勤しんで家に篭もる中、ひとり虫網を持って外へ出掛けていた。少しずつ大人になって皆原初的な媒体を廃棄する中、私はずっと変われなくてギャップたるものに悩んだことさえある。だが、心理的な悩みは行動で相殺出来るものではなく、未だに " 歳に似つかわしくない " ものを好んで練り歩いているのだ。私にとってはそれらが憧れに他ならない。一人の人間や一つのもの、レコードの一曲でさえも、今日という今日は愛してやりたい。

私のレコード録

空蝉 夏目 と 惰眠 というペンネームで小説やエッセイを書いたり、フィルムカメラを嗜んでいます。2000年生まれの人間から見た昭和曲を、ヴァイナル盤を通して書き綴っていきます。

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