坂本龍一 - 千のナイフ (1978)

音楽界の巨匠とも言える 坂本龍一 通称 " 教授 " のデビュー作。この頃からコンピュータ・オペレーターは松武秀樹によって捌かれており、本アルバムの制作は後年のYMOに強い繋がりを持たせた。ここでノウハウを培った彼らは、数年後にYMOとして世に名を馳せる。あくまでデビュー作だけれど、この頃から松武秀樹、高橋幸宏、細野晴臣、渡辺香津美との親交があった坂本龍一の強さたるや、尋常では無い。

千のナイフを知ったのは中学2年の冬のことだった。父親の旧式のiPodから聴こえてくる YMO ヴァージョンとしての千のナイフ。冒頭のヴォコーダーの声が怖くて聴く気が起きなかったのを思い出す。YMOに造詣があるような、何となくスノッヴじみた雰囲気を持ってYMOと対峙していたが、当時好んで聴いていたのは所謂 「テクノ・ポップ」路線だったので、筋としてはまだまだだったのかもしれない。

時は流れ、大学3年時のコロナ自粛期間にプロパガンダを聴いて感銘を受ける。この頃から少しずつ無彩色のドラムワークに耳が慣れてきて、段階的に千のナイフのような形態の音楽も聴けるようになった、というわけである。この辺の音楽が聴けるようになると聴けるレンジがじりじりと拡がってとても良い。

千のナイフをは皮切りに始まる、サカモトワールド。ゆったりとしたリズムの中に秩序安寧な要素がこれでもかと詰め込まれている。かと思えば、Island of woods では前曲にあった要素を叩き割るかのようなパフォーマンスを見せる。B面曲である Das neue japanische electronische volkslied 、Plastic bamboo、 The end of asia 辺りは本当に簡素にまとめてしまうが後のYMOとしての運命性を決定づけるような音楽であることは間違いない。
この尖りに尖りきった純悪な感じが、教授っぽい。何となく。
特に私がフィーチャーしたいのは Grasshoppers。どうしてこのアルバムにこの曲を押し込めたのか、、、。
クラシック調のピアノから本を開くように拡充されていく世界観。他の音楽に含有されているちょっとした 「粗暴性」みたいなものがこの曲ではピタッと鎮められている。そう、ここに拡がるのは一種の郷愁ーーーーーー。

中途のピアノワークとベースラインのみで構成される部分を聴いていると、幼少の頃の自分が瞼の裏に映る。追憶の深淵に無理矢理突き落とされるかのようなその感覚は、水中に沈んでいる息苦しさに近い。
当時の人々はこれをどのように聴き下し、更には飲み下していたのか、本当に気になる。

良い意味でも悪い意味でもオーディエンスに媚びない絶対王政的な感じがある坂本龍一。高校時代には学生運動に積極的に参加し、バリケードを建てることもあったとか。これに通じているのか定かでは無いが (絶対通じていると思うが) ライナーノーツが鬼ほど臭い。共産主義という言葉が一言一句書いていないのに、ひと目でそれと分かる文言が羅列していた。
未だ見受けられる政治や国運に対する思想の強さを見れば、当時持ち合わせていたフィジカルは相当なものだったことだろう。

音楽に於ける根張りの強さ、オーディエンスに一切媚びない態度もはっきりとしていて、非常に気持ちが良い。意固地になって作風を変えていかない、超前衛であり続けるその様はまるで、文学家の態度に近しいものがあるような気がする。



私のレコード録

空蝉 夏目 と 惰眠 というペンネームで小説やエッセイを書いたり、フィルムカメラを嗜んでいます。2000年生まれの人間から見た昭和曲を、ヴァイナル盤を通して書き綴っていきます。

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